さわがしい静(しづ)の日記

20代後半から看護師めざす人の自由な日記。自作小説はイタいかも。

優しさが無意味になるときと意味を成すとき

 

どんなことがあっても、自分が犠牲になろうとも、見返りがなかろうとも、子供時代は優しさを失わないように努めてきた。

それが正しいことだと思ったから。

 

「とんでもなくイジメてくる人達がいたとして、その人達に対しても優しさを忘れてはならない」というマイルールのもとで子供時代を生きてきた。

自分が嫌な辛い思いをしたからといって人のことを貶すのは安直すぎるのではないか……。

頑張って優しさを持って人を許して、人のことを自分自身かのように甘く見ることもできないようでは、人として未熟なのではないか……。

そう考えていた。

 

確かに優しさって、人間社会の中からなくすわけにいかない物だと思う。

近年は様々なハンデを背負った人達にとって優しい制度もできている。個人個人が人権ある者として尊重もされてる。

でもどんなに便利な支援制度や様々な人権の概念があったところで、もし社会の一人一人の心から優しさが消えたら誰も救われないんじゃないかと思う。

それだけ優しさというものは大きな意味を持つものなのではないか思う。

 

優しさは確かに大事。

だけど前いろいろあって「優しさなんて無意味なのでは」と考えるようになった。

優しさも怒りもすべて目に見えないものだから、本当の意味で人には伝わらない。それにみんな、他人の優しさがあってもなくても無関係に生きれているように思えた。

それに加え、「報われなさすぎでは…。自分ばかり傷ついている…」と思えてしまった時からは、優しさを控えるようになった。

 

でも最近思うことがある。

自分ばかり傷ついている中で自分ばかりが優しさを与えてるような状況では、その優しさは無意味になると思う。相手だけが得をしているか、もしくは誰の得にもなっていない。

けど、自己犠牲のもとだとしても、その優しさを以て人に対して啓発していくことができるなら、優しさは意味を成すんだろうなと思った。

優しさは1人だけでやることではなく、みんなでやることだと思うから。